LOGIN翌日の昼休み。
俺が学食の一番奥、比較的人の少ない席で唐揚げ定食を食べていると、夏目陽菜が妙に真剣な顔でやってきた。
「香坂君、ちょっといい?」
「もう座ってるけど」
「そういう意味じゃなくて」
「じゃあ何だよ」
陽菜は俺の正面に座ると、持っていた小さな紙袋をテーブルの上に置いた。
その後ろには当然のように水野千紗もいる。
「何、その袋」
「実験道具」
「帰るわ」
「待って!」
立ち上がろうとした俺の袖を、陽菜が慌てて掴んだ。
「まだ何もしてないじゃん!」
「実験道具って聞いた時点で嫌な予感しかしない」
「危ないことじゃないって。むしろ香坂君が昨日、自分で鼻がいいって言ったんでしょ」
「言ったけど、証明しろとは言ってない」
「私は確認したいの」
「何を」
「どのくらい本当に分かるのか」
陽菜は紙袋の中から、小さな透明の容器を三つ取り出した。
どれも蓋が閉まっている。
千紗が隣に座りながら説明した。
「私も手伝いました」
「何でそんな楽しそうなんだ」
「陽菜が昨日からずっと気にしてたから」
「千紗、それ言わなくていい」
「朝から『本当に分かるのかな』『昨日のも適当に言っただけだったらどうしよう』ってうるさかった」
「全部言わなくていい!」
陽菜が千紗の腕を叩く。
千紗はまったく気にしていない。
「で、中身は?」
俺が聞くと、陽菜は少しだけ表情を引き締めた。
「それは秘密。目を閉じてもらって、順番に匂いを嗅いで当ててもらう」
「何でそんな本格的なんだよ」
「確認だから」
「何の確認だ」
「……昨日まで香坂君が言ってたことが、本当に香坂君にはそう感じてたのかどうか」
最後だけ声が少し小さくなった。
なるほど。
つまり陽菜が気にしているのは、俺の嗅覚そのものではない。
自分の匂いについて俺が言ったことが、本当にその場しのぎではなかったのか。
そこを確かめたいらしい。
「分かった」
「やるの?」
「やらないと納得しないだろ」
「うん」
「即答だな」
「だって気になるし」
陽菜は妙に素直だった。
俺はため息をつきながら箸を置く。
「じゃあやれば」
「よし」
陽菜と千紗が顔を見合わせる。
完全に楽しんでいる。
「まず一つ目ね。目閉じて」
「別に見ても分からないだろ」
「いいから」
「はいはい」
仕方なく目を閉じる。
少しして蓋を開ける音がした。
「これ」
容器が鼻先へ近づく前に、俺はもう分かった。
「レモン」
沈黙。
「まだ近づけてないけど」
「蓋開けた時点で分かった」
「……え、本当に?」
「レモンだろ」
目を開ける。
陽菜の手には、薄く輪切りにされたレモンが入った容器。
千紗が感心したように眉を上げた。
「じゃあ二つ目」
もう一度目を閉じる。
今度は少し甘い香り。
「バニラ」
「正解」
「最後」
次は少し分かりにくかった。
柔らかい花の香りに、石鹸のような匂いが混じっている。
「……柔軟剤?」
「正解。でも種類まで分かる?」
「そこまでは無理」
「ほんとに何でも分かるわけじゃないんだ」
「だからそう言っただろ。別に超能力じゃない」
目を開けると、陽菜は三つの容器を見ながら、少し困ったような顔をしていた。
「じゃあ、本当に鼻がいいんだ」
「今さら?」
「だって、普通こんなの疑うでしょ」
「まあ、そうか」
「じゃあ昨日のも」
陽菜がこちらを見る。
「本当に、私の汗の匂いと制汗剤の匂いが別々に分かってたんだ」
「分かってた」
「それで、制汗剤のほうがきついって思った?」
「俺にはな」
「……そうなんだ」
陽菜は小さく頷いた。
どこか安心したように見える。
千紗が横から口を挟んだ。
「つまり陽菜は二日間悩んでたけど、香坂君は最初から本当のことしか言ってなかったってことね」
「そういうまとめ方しないで」
「でも合ってるでしょ」
「合ってるけど」
陽菜は少し恥ずかしそうにペットボトルへ口をつけた。
「何だよ」
「何でもない」
「またそれか」
「だって、何て言えばいいか分かんないんだもん」
「別に何も言わなくていいだろ」
「香坂君って、そういうところあるよね」
「どういうところ」
「自分は変なこといっぱい言うのに、相手が何か言おうとすると『言わなくていい』って逃げる」
「逃げてない」
「逃げてる」
千紗も頷く。
「それは私も思う」
「何で水野まで乗ってくるんだ」
「客観的意見」
「頼んでない」
俺がそう言うと、千紗は肩をすくめた。
「じゃあ聞かないけど、一つだけ気になる」
「何」
「香坂君って、昔からずっとそのくらい鼻いいの?」
俺は一瞬だけ黙った。
「昔から」
「子どもの頃から?」
「たぶん」
「それ、周りに知られてた?」
嫌なところを突く。
俺は少し迷った。
話す必要はない。
でも、昨日陽菜に言われたことを思い出した。
俺自身が、人付き合いを苦手になった理由をそのうち話せと言われていた。
「知られてた時期もある」
陽菜が反応する。
「それって、昨日言ってた話?」
「たぶん」
「人付き合い苦手になった理由?」
「そう」
陽菜の目が少し真剣になる。
「話したくなかったら、無理に言わなくていいよ」
「昨日は絶対聞くみたいな顔してたのに」
「それとこれは別。嫌なこと無理に聞きたいわけじゃない」
そう言われると、逆に話してもいいような気がした。
俺は少し考えてから口を開いた。
「小学生の頃、同じクラスに香水みたいな匂いがするやつがいたんだよ」
「香水?」
「子どもだから、本人がつけてたわけじゃない。たぶん家で使ってた柔軟剤とか、母親の化粧品とか、そういうのが服についてたんだと思う」
「うん」
「俺はその匂いが強くて苦手だった」
そこまでは何でもない話だ。
問題は、その先だった。
「ある日、そいつが近くに来た時、俺が『今日も匂いきついな』って言った」
陽菜が少し眉を寄せる。
「それ、本人に?」
「本人に」
「子どもだったとはいえ、結構直球だね」
「今でも大して変わってないけどな」
「否定できない」
「お前が言うな」
少しだけ笑いが入る。
でも、続きは笑えない。
「そしたら、そいつ次の日から学校来なくなった」
「え」
「俺の一言だけが原因かは分からない。もともと色々あったのかもしれない。でも、後から聞いたら『臭いって言われた』って家で泣いてたらしい」
「香坂君は『臭い』って言ったわけじゃないんだよね」
「言ってない。でも、相手からすれば同じだろ」
陽菜は黙った。
「それからしばらく、クラスでも俺が悪いみたいな空気になった。実際、悪いんだけどな」
「それは……」
「先生にも言われた。自分が気になるからって、それを全部そのまま口にしていいわけじゃないって」
「それはそうかもしれないけど」
「分かってる。今なら普通に分かる。でも子どもの俺は、何で本当のこと言っただけで怒られるんだって思ってた」
千紗が少しだけ姿勢を正す。
陽菜は何も挟まず、黙って聞いている。
「その後も何回か似たようなことがあった。給食の匂いが変だとか、誰かの服がいつもと違うとか、教室に変な匂いがするとか。俺には普通に分かることだったけど、言われた側は嫌だったんだと思う」
「だから、だんだん言わなくなった?」
「それもある」
「それも?」
「そのうち、何か言う前に考えるようになった。これ言ったら傷つくかな、とか。気にしてることだったらどうしようとか」
「……うん」
「考えてるうちに、面倒になった」
「結論が雑」
陽菜が小さく笑う。
「でも分かる」
「分かるのか」
「分かるよ。考えすぎると、何も言えなくなることあるし」
「そういうこと」
俺はテーブルの上の紙コップを見た。
「だから人付き合いも、必要以上に近づかないほうが楽だと思うようになった。近くにいると余計なことも分かるし、余計なことも言うから」
「それで最初、あんな感じだったんだ」
「あんな感じって何」
「人と関わる気ありません、みたいな顔」
「そんな顔してたか」
「してた」
「普通だと思ってた」
「自覚ないんだ」
「お前も大概だろ」
「私は明るいから」
「自分で言うな」
陽菜は笑った。
そのあと少しだけ真面目な顔になる。
「でもさ」
「何」
「それ、香坂君だけが全部悪かったわけじゃないと思う」
「子どもの頃の話だぞ」
「うん。だからなおさら」
陽菜は少し考えながら言葉を選んだ。
「たぶん、香坂君は本当に分かんなかったんでしょ。自分には普通に分かる匂いが、他の人にはそこまで分からないってこと」
「まあ」
「だったら、言い方は悪かったとしても、最初から誰かを傷つけたかったわけじゃないじゃん」
「それで傷ついたことがなくなるわけじゃない」
「なくならないよ。でも、だからって香坂君がずっと人に近づかない理由にしなくてもいいんじゃない?」
少し胸に引っかかった。
「簡単に言うな」
「簡単じゃないよ」
「知り合って三日だろ」
「三日でも分かることあるよ」
「例えば」
「香坂君、別に意地悪じゃない」
「評価低いな」
「かなり大事なところでしょ」
「もっと何かないのか」
「口が悪い」
「それは悪口」
「でも、本当に相手が嫌がってる時は止まる」
俺は少し驚いた。
陽菜は続ける。
「昨日もそうだった。私が本気で嫌そうな顔したら、途中でちゃんと引いたじゃん。今日だって、昔の話したくなかったら無理に言わなくていいって自分で考えてたでしょ」
「何で分かるんだよ」
「顔」
「顔?」
「香坂君、分かりやすい時ある」
「初めて言われた」
「たぶんみんな興味なかっただけじゃない?」
「ひどいな」
「冗談」
陽菜は笑った。
俺も少しだけ笑う。
千紗が横で何か言いたそうな顔をしている。
「何だよ」
「いや、二人とも昨日までほぼ他人だったのに、急に結構深い話してるなと思って」
陽菜が固まる。
「それ言わないで」
「何で」
「急に恥ずかしくなるから」
「もう遅いでしょ」
「そういうところ千紗嫌い」
「昨日は友達やめるって言ってたし、今日は嫌いって言われた。私の扱いひどくない?」
「自業自得」
俺は二人のやり取りを見ながら、少し肩の力が抜けた。
思ったより話してしまった。
昔のことは、大学に入ってから誰にも話していない。
久我にも言っていない。
それなのに、陽菜には話せた。
理由は分からない。
たぶん陽菜自身が、昨日自分のコンプレックスを話したからだ。
片方だけが弱いところを見せるより、互いに一つずつ持っていたほうが楽なのかもしれない。
「ねえ、香坂君」
「何」
「私、今ちょっとだけ分かった気がする」
「何が」
「昨日、何であんな言い方したのか」
「汗の匂いの話?」
「うん」
陽菜は少し照れくさそうに頷く。
「たぶん香坂君、気を遣って嘘つくより、本当に思ったこと言ったほうがいいと思ったんでしょ」
「そこまで考えてない」
「考えてなくても、そういう癖なんだよ」
「勝手に分析するな」
「当たってる?」
「……少し」
「ほら」
陽菜が嬉しそうに笑った。
「じゃあ、本当に好きだったんだ」
「何が」
「私の匂い」
「またそこに戻るのかよ」
「大事なところじゃん」
「別に好きって断言したわけじゃない。好きかもしれないって言っただけ」
「細かい」
「全然違うだろ」
「じゃあ今は?」
「今?」
「今はどう思ってるの」
急に聞かれて、俺は返事に詰まった。
「今日の匂い?」
「いや、そうじゃなくて……いや、匂いでもいいけど」
「何だよ」
「自分でも分かんなくなった」
陽菜が顔を赤くする。
千紗は横で笑いを堪えている。
「水野、笑うなら声出して笑え」
「いや、今は我慢したほうが面白いから」
「意味分かんない」
「こっちの話」
陽菜が恨めしそうに千紗を見る。
俺は少し考えてから、陽菜へ言った。
「少なくとも、嫌じゃない」
「それ、最初と同じじゃん」
「じゃあ、前より気になる」
言った瞬間、陽菜が止まった。
俺自身も止まった。
「……何が?」
「だから」
「私が?」
「匂いが」
「今、一瞬『私が』って言いそうにならなかった?」
「なってない」
「絶対なった」
「なってない」
「耳赤いよ」
「うるさい」
千紗がとうとう吹き出した。
「ごめん、もう無理」
「千紗!」
「いや、だって二人とも分かりやすすぎる」
「何が!」
「まだ何も言ってない」
「今の顔で分かる!」
学食の周囲から何人かこちらを見る。
陽菜は慌てて声を落とした。
「もう最悪」
「お前が大声出したんだろ」
「香坂君のせい」
「俺、普通に答えただけだぞ」
「そういうところ!」
「何だよ」
「何でもない!」
陽菜は頬を膨らませながら、紙袋の中へ三つの容器を戻した。
そのまま席を立とうとして、一度止まる。
「でも」
「何」
「今日、話してくれてありがとう」
急に真面目な声だった。
「別に」
「そういう時くらい素直に『どういたしまして』って言えばいいのに」
「じゃあ、どういたしまして」
「言わされてる感すごい」
「面倒だな」
「人間は大体面倒なんでしょ」
「またそれ使うのか」
「便利だから」
陽菜は笑った。
「じゃあ、また明日」
「おう」
「それと」
「まだあるのか」
「明日、もう一個だけ試したい」
「何を」
「今日の三つ、簡単すぎた気がするから」
「まだ疑ってるのか」
「違う。面白くなってきた」
「最悪だな」
「じゃあ明日はもっと難しいの持ってくる」
「持ってくるな」
「もう決めた」
「人の話聞けよ」
「またね、香坂君」
陽菜は楽しそうに手を振って去っていった。
千紗もその後ろを追いかける。
少し離れたところで、二人が何か話していた。
「陽菜、完全に楽しんでるじゃん」
「うるさい」
「昨日まで逃げてたのに」
「だから逃げてないってば」
「じゃあ今は?」
「……普通に話してるだけ」
「ふうん」
「何、その言い方」
二人の声は人混みに紛れて聞こえなくなった。
俺は残った唐揚げを口に入れながら、何となく思う。
昔の話をしたあと、もっと重い気分になると思っていた。
実際には、そうでもなかった。
陽菜が変に慰めなかったからかもしれない。
全部俺が悪かったわけじゃない、と言ったあとで、それでも傷ついた事実は消えないとも認めた。
その曖昧さが、俺には妙に楽だった。
人間の話なんて、大抵は白黒で片づかない。
誰かが全部悪いわけでも、全部正しいわけでもない。
だから面倒なのだ。
でも、その面倒な部分まで話せる相手がいるのは、悪くないのかもしれない。
俺はそこで、自分がもう明日の昼休みを少しだけ楽しみにしていることに気づいた。
「……まさかな」
そう呟いて、残りの定食を食べる。
翌日。
陽菜は予告どおり、三種類の飲み物を持ってきた。
しかも今度は千紗だけではなく、なぜかもう一人、見知らぬ上級生まで連れていた。
その女は俺を見るなり、楽しそうに笑ってこう言った。
「へえ。君が、匂いで人を困らせる一年生?」
その瞬間、俺は直感した。
たぶんこの人とは、関わらないほうがいい。
そして、そういう予感に限って当たる。
俺が後に「フェチ研」と呼ばれる妙な研究会へ引きずり込まれるまで、あと少しだった。
第87話 彼女が走っている数十秒だけ、俺には何もできない スタートの合図が鳴った瞬間、陽菜は俺の知っている夏目陽菜ではなくなった。 もちろん、別人になったわけではない。けれど、さっきまで俺の前で「好きって言って」と頼み、少し怖いと笑い、日焼け止めの匂いを気にしていた彼女と、今トラックを走っている選手が、同じ人間なのにまるで違って見えた。 陽菜は自分のレーンを走っている。 最初のカーブ。前半は飛ばしすぎないと以前聞いたことがある。それでも、観客席から見ている俺には速いとしか分からない。陸上を何年もやっている人間ならフォームやペース配分をもっと細かく見られるのだろうが、俺にはそこまでの知識はなかった。 だから、ただ目で追う。 それしかできない。「行け……」 声が勝手に出た。 聞こえるわけがない。周囲にはもっと大きな声で選手名を叫ぶ人もいるし、トラックそのものが遠い。俺の声など陽菜には届かないだろう。 それでも言う。「陽菜、行け」 前の選手との差がどうなっているのか、一瞬では分からない。レーンが違うので、見た目の位置だけでは順位も判断しづらい。 俺は息を止めそうになり、途中で自分が呼吸していないことに気づいた。 走っているのは俺ではない。 なのに苦しい。 意味が分からない。 ホームストレートの反対側へ入る頃、陽菜の腕の振りが少し大きくなった。 あれが予定通りなのか、それとも苦しくなっているのか分からない。 分からないことばかりだった。 脚、大丈夫か。 ふくらはぎ。 昨日張っていた場所。 一瞬そこへ考えが向かい、俺はすぐにやめた。 今、それを考えても何もできない。
第86話 今回は、彼女から先に「好きって言って」と言われた 大会当日、競技場の入口近くで陽菜を見つけた時、俺は最初に「おはよう」と言うつもりだった。 昨日、二人でそういう話をしたからというより、それが一番普通だったからだ。大会だからといって特別な言葉を用意しておく必要はない。むしろ、前回みたいに余計なことを考えすぎるより、その時の陽菜を見て話せばいい。 そう思っていたのに、俺が口を開くより先に、陽菜はスポーツバッグを肩へ掛けたままこっちへ来て、少しだけ困った顔で言った。「悠真、今日だけは先に好きって言って」 かなり意外だった。「今?」「今」「前回、レース前は嫌だって言ってたけど」 そこまで言ってから、言い方を間違えた気がした。 陽菜も少しだけ眉を上げる。「それ、今言う?」「比較したかったわけじゃない」「でもした」「ごめん」 陽菜は一度息を吐いてから、肩に掛けていたバッグを持ち直した。「まあ、私も前と逆だなって思ってるからいいけど」「じゃあ、本当に今?」「うん。今は欲しい」 なら、迷う理由はない。「好きだよ、陽菜」 言うと、陽菜の顔が少しだけ緩んだ。「もう一回」「何で」「一回で終わると思わなかった」「注文多いな」「今日だけ」「好きだよ」 今度は少しゆっくり言った。 陽菜は数秒こっちを見たあと、「うん」と頷いた。その返事が昨日より落ち着いていたので、俺のほうも少し安心する。「これでいい?」「かなり」「
第85話 大会前日に、彼女が珍しく「怖い」と言った 大会前日の陽菜は、思っていたより普通だった。 午前中に軽い調整をしたあと、昼過ぎに大学近くの喫茶店で会った時も、特別ぴりついている様子はなかった。髪はいつものように結ばれていて、注文したのもいつものアイスティーだったし、俺が頼んだプリンを見て「一口ちょうだい」と言うところまで普段通りだった。「自分で頼めばよかっただろ」「一個はいらないの。一口がいい」「その理屈、毎回ずるい」「彼氏のプリンは一口だけ食べると一番おいしい」「そんな効果ない」「あるよ。自分のお金で買ってないから」「最悪の理由」 結局一口やると、陽菜は満足そうに笑った。 この顔だけ見ていれば、明日大会だとは思えない。 俺のほうが意識しているくらいだった。脚の張りはどうか、体調はどうか、睡眠は取れているか。聞きたいことはいくつもある。 でも、ここ数日の話を考えると、全部確認するのも違う気がした。「脚」 それでも一つだけ聞く。「大丈夫」「本当に?」「朝、コーチにも見てもらった。昨日より軽いし、痛みもない。今日は流しとスタート少しだけで終わり」「ならよかった」「悠真」「何」「今ので一個終わりね」「何が」「体調確認」 読まれていた。「もう聞くなってこと?」「聞いてもいいけど、五分ごとに大丈夫って言われると、逆に何か悪い気してくる」「そこまでは聞かない」「ならいい」 陽菜はアイスティーを飲んだあと、少しだけ俺の顔を見る。
第84話 好きだから止めたい。でも、止める権利まではない 前日に読んだ相談カードのことが、翌日になっても頭に残っていた。 恋人が試験勉強で疲れ切っている。見ているのがつらい。だから「もうやめればいい」と言いたくなる。 昨日はかなり整理したつもりだった。頑張ることそのものと、寝不足や食事の乱れは分けて考える。心配していることは具体的に伝える。でも、相手が続けるかやめるかまで先回りして決めない。 理屈としては分かった。 問題は、それが自分のことになると急に難しくなることだった。 翌日の午後、俺は大学の陸上競技場の外側にあるベンチへ座っていた。陽菜に呼ばれたわけではない。図書館へ行く途中、たまたま練習が見える場所を通っただけだ。 少し見てから行こう。 そう思った。 競技場では短距離組がスタート練習をしていた。遠くからでも陽菜は分かる。走り方もそうだが、スタート前に一度だけ肩を回す癖がある。 何本か走る。 止まる。 コーチらしい人と話す。 また走る。 見ているだけなら、特に問題はなさそうだった。 ところが一本終わったあと、陽菜が左のふくらはぎを押さえた。 胸が少し動く。 すぐ離した。 歩いている。 引きずってはいない。 ストレッチをして、またスタート地点へ戻る。「……大丈夫か」 誰にも聞こえないくらい小さく言った。 次の一本。 走る。 普通に見える。 でも、一度気づくと気になる。 走り終わるたびに脚を見る。歩き方を見る。本人が少しでもふくらはぎへ触れると、それだけで不安になる。
第83話 恋人が頑張っている姿を見るのが、つらい 大会まで四日となった午後、フェチ研の相談箱に一枚のカードが入っていた。 最初に読んだのは澪先輩だった。いつものようにカードを種類ごとに分けていた手が途中で止まり、少し考えてから神崎先輩へ渡す。「これ、短く返すより話したほうがいいかも」「どれ?」 神崎先輩が受け取り、俺と陽菜にも見えるよう机の中央へ置いた。 相談そのものは長くない。『恋人が資格試験の勉強をしています。本人がやりたいと言って始めたことなので応援したいのですが、最近は寝不足で食事も適当になり、会ってもずっと疲れています。頑張っている姿を見るほど「もうやめればいいのに」と思ってしまいます。でもそれを言ったら、相手の努力を否定することになる気がします。好きな人が頑張っているなら、黙って応援するべきでしょうか。』 読み終わって、最初に頭へ浮かんだのは陽菜だった。 隣を見る。 陽菜もこちらを見ていた。「今、私思い出したでしょ」「うん」「即答」「隠しても意味ない」「まあ私も、自分のことみたいだと思ったけど」 陽菜はカードをもう一度読む。「でもこれ、かなり分かるかも」「止められる側として?」「両方。もし悠真が何かのために毎日寝ないで頑張ってたら、私たぶん最初は応援する。でも顔色悪くなってきたら、普通にやめてって言うと思う」「俺がやりたいって言ってても?」「言う。だって倒れたら嫌だもん」 神崎先輩が椅子へ深く座り直した。「そこなんだよね。相手が頑張ってると、応援することが善で、止めることが悪みたいになりやすい。でも実際はそんなに単純じゃない」「じゃあ、この人は言っていいんですか」
第82話 「頑張って」が欲しい日と、いらない日は自分でも分からない 大会まで一週間を切った火曜日、陽菜から珍しく朝のうちに電話がかかってきた。 普段ならメッセージで済ませる時間だったので、何かあったのかと思いながら出ると、最初に聞こえたのは寝起きでも焦っている声でもなく、少し苛立ったような声だった。『悠真、今ちょっと話せる?』「話せる。どうした」『昨日さ、練習行く前に頑張ってって言ってくれたじゃん』「言った」『あれ、昨日は嬉しかったの』「うん」『でも今日、同じこと言われたらちょっと嫌かもしれない』 一瞬、意味を考えた。「誰かに言われた?」『まだ言われてない。これから練習なんだけど、朝起きた時から何か嫌で』「何が嫌?」『それが分かんないから電話した』 そう言われると、俺にできることはかなり限られる。 理由を当てる。 原因を整理する。 対策を考える。 以前なら、そのどれかをすぐ始めていた気がする。「じゃあ今日は言わない」 とりあえずそう答えると、陽菜が少し黙った。『……それだけ?』「他に何かいる?」『いや、いらないんだけど』「じゃあそれで」『悠真、最近こういう時ちょっと強くなったよね』「何が」『前なら「昨日はよかったのに何で」って聞いてきそうだった』「聞きたい気持ちはある」『あるんだ』「でも、陽菜も分からないなら、俺が聞いたところで今すぐ答え出ないだろ」 電話の向こうで、少