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第4話 俺の鼻は、昔からちょっと面倒だ

last update publish date: 2026-09-05 11:34:44

第4話 俺の鼻は、昔からちょっと面倒だ

 翌日の昼休み。

 俺が学食の一番奥、比較的人の少ない席で唐揚げ定食を食べていると、夏目陽菜が妙に真剣な顔でやってきた。

「香坂君、ちょっといい?」

「もう座ってるけど」

「そういう意味じゃなくて」

「じゃあ何だよ」

 陽菜は俺の正面に座ると、持っていた小さな紙袋をテーブルの上に置いた。

 その後ろには当然のように水野千紗もいる。

「何、その袋」

「実験道具」

「帰るわ」

「待って!」

 立ち上がろうとした俺の袖を、陽菜が慌てて掴んだ。

「まだ何もしてないじゃん!」

「実験道具って聞いた時点で嫌な予感しかしない」

「危ないことじゃないって。むしろ香坂君が昨日、自分で鼻がいいって言ったんでしょ」

「言ったけど、証明しろとは言ってない」

「私は確認したいの」

「何を」

「どのくらい本当に分かるのか」

 陽菜は紙袋の中から、小さな透明の容器を三つ取り出した。

 どれも蓋が閉まっている。

 千紗が隣に座りながら説明した。

「私も手伝いました」

「何でそんな楽しそうなんだ」

「陽菜が昨日からずっと気にしてたから」

「千紗、それ言わなくていい」

「朝から『本当に分かるのかな』『昨日のも適当に言っただけだったらどうしよう』ってうるさかった」

「全部言わなくていい!」

 陽菜が千紗の腕を叩く。

 千紗はまったく気にしていない。

「で、中身は?」

 俺が聞くと、陽菜は少しだけ表情を引き締めた。

「それは秘密。目を閉じてもらって、順番に匂いを嗅いで当ててもらう」

「何でそんな本格的なんだよ」

「確認だから」

「何の確認だ」

「……昨日まで香坂君が言ってたことが、本当に香坂君にはそう感じてたのかどうか」

 最後だけ声が少し小さくなった。

 なるほど。

 つまり陽菜が気にしているのは、俺の嗅覚そのものではない。

 自分の匂いについて俺が言ったことが、本当にその場しのぎではなかったのか。

 そこを確かめたいらしい。

「分かった」

「やるの?」

「やらないと納得しないだろ」

「うん」

「即答だな」

「だって気になるし」

 陽菜は妙に素直だった。

 俺はため息をつきながら箸を置く。

「じゃあやれば」

「よし」

 陽菜と千紗が顔を見合わせる。

 完全に楽しんでいる。

「まず一つ目ね。目閉じて」

「別に見ても分からないだろ」

「いいから」

「はいはい」

 仕方なく目を閉じる。

 少しして蓋を開ける音がした。

「これ」

 容器が鼻先へ近づく前に、俺はもう分かった。

「レモン」

 沈黙。

「まだ近づけてないけど」

「蓋開けた時点で分かった」

「……え、本当に?」

「レモンだろ」

 目を開ける。

 陽菜の手には、薄く輪切りにされたレモンが入った容器。

 千紗が感心したように眉を上げた。

「じゃあ二つ目」

 もう一度目を閉じる。

 今度は少し甘い香り。

「バニラ」

「正解」

「最後」

 次は少し分かりにくかった。

 柔らかい花の香りに、石鹸のような匂いが混じっている。

「……柔軟剤?」

「正解。でも種類まで分かる?」

「そこまでは無理」

「ほんとに何でも分かるわけじゃないんだ」

「だからそう言っただろ。別に超能力じゃない」

 目を開けると、陽菜は三つの容器を見ながら、少し困ったような顔をしていた。

「じゃあ、本当に鼻がいいんだ」

「今さら?」

「だって、普通こんなの疑うでしょ」

「まあ、そうか」

「じゃあ昨日のも」

 陽菜がこちらを見る。

「本当に、私の汗の匂いと制汗剤の匂いが別々に分かってたんだ」

「分かってた」

「それで、制汗剤のほうがきついって思った?」

「俺にはな」

「……そうなんだ」

 陽菜は小さく頷いた。

 どこか安心したように見える。

 千紗が横から口を挟んだ。

「つまり陽菜は二日間悩んでたけど、香坂君は最初から本当のことしか言ってなかったってことね」

「そういうまとめ方しないで」

「でも合ってるでしょ」

「合ってるけど」

 陽菜は少し恥ずかしそうにペットボトルへ口をつけた。

「何だよ」

「何でもない」

「またそれか」

「だって、何て言えばいいか分かんないんだもん」

「別に何も言わなくていいだろ」

「香坂君って、そういうところあるよね」

「どういうところ」

「自分は変なこといっぱい言うのに、相手が何か言おうとすると『言わなくていい』って逃げる」

「逃げてない」

「逃げてる」

 千紗も頷く。

「それは私も思う」

「何で水野まで乗ってくるんだ」

「客観的意見」

「頼んでない」

 俺がそう言うと、千紗は肩をすくめた。

「じゃあ聞かないけど、一つだけ気になる」

「何」

「香坂君って、昔からずっとそのくらい鼻いいの?」

 俺は一瞬だけ黙った。

「昔から」

「子どもの頃から?」

「たぶん」

「それ、周りに知られてた?」

 嫌なところを突く。

 俺は少し迷った。

 話す必要はない。

 でも、昨日陽菜に言われたことを思い出した。

 俺自身が、人付き合いを苦手になった理由をそのうち話せと言われていた。

「知られてた時期もある」

 陽菜が反応する。

「それって、昨日言ってた話?」

「たぶん」

「人付き合い苦手になった理由?」

「そう」

 陽菜の目が少し真剣になる。

「話したくなかったら、無理に言わなくていいよ」

「昨日は絶対聞くみたいな顔してたのに」

「それとこれは別。嫌なこと無理に聞きたいわけじゃない」

 そう言われると、逆に話してもいいような気がした。

 俺は少し考えてから口を開いた。

「小学生の頃、同じクラスに香水みたいな匂いがするやつがいたんだよ」

「香水?」

「子どもだから、本人がつけてたわけじゃない。たぶん家で使ってた柔軟剤とか、母親の化粧品とか、そういうのが服についてたんだと思う」

「うん」

「俺はその匂いが強くて苦手だった」

 そこまでは何でもない話だ。

 問題は、その先だった。

「ある日、そいつが近くに来た時、俺が『今日も匂いきついな』って言った」

 陽菜が少し眉を寄せる。

「それ、本人に?」

「本人に」

「子どもだったとはいえ、結構直球だね」

「今でも大して変わってないけどな」

「否定できない」

「お前が言うな」

 少しだけ笑いが入る。

 でも、続きは笑えない。

「そしたら、そいつ次の日から学校来なくなった」

「え」

「俺の一言だけが原因かは分からない。もともと色々あったのかもしれない。でも、後から聞いたら『臭いって言われた』って家で泣いてたらしい」

「香坂君は『臭い』って言ったわけじゃないんだよね」

「言ってない。でも、相手からすれば同じだろ」

 陽菜は黙った。

「それからしばらく、クラスでも俺が悪いみたいな空気になった。実際、悪いんだけどな」

「それは……」

「先生にも言われた。自分が気になるからって、それを全部そのまま口にしていいわけじゃないって」

「それはそうかもしれないけど」

「分かってる。今なら普通に分かる。でも子どもの俺は、何で本当のこと言っただけで怒られるんだって思ってた」

 千紗が少しだけ姿勢を正す。

 陽菜は何も挟まず、黙って聞いている。

「その後も何回か似たようなことがあった。給食の匂いが変だとか、誰かの服がいつもと違うとか、教室に変な匂いがするとか。俺には普通に分かることだったけど、言われた側は嫌だったんだと思う」

「だから、だんだん言わなくなった?」

「それもある」

「それも?」

「そのうち、何か言う前に考えるようになった。これ言ったら傷つくかな、とか。気にしてることだったらどうしようとか」

「……うん」

「考えてるうちに、面倒になった」

「結論が雑」

 陽菜が小さく笑う。

「でも分かる」

「分かるのか」

「分かるよ。考えすぎると、何も言えなくなることあるし」

「そういうこと」

 俺はテーブルの上の紙コップを見た。

「だから人付き合いも、必要以上に近づかないほうが楽だと思うようになった。近くにいると余計なことも分かるし、余計なことも言うから」

「それで最初、あんな感じだったんだ」

「あんな感じって何」

「人と関わる気ありません、みたいな顔」

「そんな顔してたか」

「してた」

「普通だと思ってた」

「自覚ないんだ」

「お前も大概だろ」

「私は明るいから」

「自分で言うな」

 陽菜は笑った。

 そのあと少しだけ真面目な顔になる。

「でもさ」

「何」

「それ、香坂君だけが全部悪かったわけじゃないと思う」

「子どもの頃の話だぞ」

「うん。だからなおさら」

 陽菜は少し考えながら言葉を選んだ。

「たぶん、香坂君は本当に分かんなかったんでしょ。自分には普通に分かる匂いが、他の人にはそこまで分からないってこと」

「まあ」

「だったら、言い方は悪かったとしても、最初から誰かを傷つけたかったわけじゃないじゃん」

「それで傷ついたことがなくなるわけじゃない」

「なくならないよ。でも、だからって香坂君がずっと人に近づかない理由にしなくてもいいんじゃない?」

 少し胸に引っかかった。

「簡単に言うな」

「簡単じゃないよ」

「知り合って三日だろ」

「三日でも分かることあるよ」

「例えば」

「香坂君、別に意地悪じゃない」

「評価低いな」

「かなり大事なところでしょ」

「もっと何かないのか」

「口が悪い」

「それは悪口」

「でも、本当に相手が嫌がってる時は止まる」

 俺は少し驚いた。

 陽菜は続ける。

「昨日もそうだった。私が本気で嫌そうな顔したら、途中でちゃんと引いたじゃん。今日だって、昔の話したくなかったら無理に言わなくていいって自分で考えてたでしょ」

「何で分かるんだよ」

「顔」

「顔?」

「香坂君、分かりやすい時ある」

「初めて言われた」

「たぶんみんな興味なかっただけじゃない?」

「ひどいな」

「冗談」

 陽菜は笑った。

 俺も少しだけ笑う。

 千紗が横で何か言いたそうな顔をしている。

「何だよ」

「いや、二人とも昨日までほぼ他人だったのに、急に結構深い話してるなと思って」

 陽菜が固まる。

「それ言わないで」

「何で」

「急に恥ずかしくなるから」

「もう遅いでしょ」

「そういうところ千紗嫌い」

「昨日は友達やめるって言ってたし、今日は嫌いって言われた。私の扱いひどくない?」

「自業自得」

 俺は二人のやり取りを見ながら、少し肩の力が抜けた。

 思ったより話してしまった。

 昔のことは、大学に入ってから誰にも話していない。

 久我にも言っていない。

 それなのに、陽菜には話せた。

 理由は分からない。

 たぶん陽菜自身が、昨日自分のコンプレックスを話したからだ。

 片方だけが弱いところを見せるより、互いに一つずつ持っていたほうが楽なのかもしれない。

「ねえ、香坂君」

「何」

「私、今ちょっとだけ分かった気がする」

「何が」

「昨日、何であんな言い方したのか」

「汗の匂いの話?」

「うん」

 陽菜は少し照れくさそうに頷く。

「たぶん香坂君、気を遣って嘘つくより、本当に思ったこと言ったほうがいいと思ったんでしょ」

「そこまで考えてない」

「考えてなくても、そういう癖なんだよ」

「勝手に分析するな」

「当たってる?」

「……少し」

「ほら」

 陽菜が嬉しそうに笑った。

「じゃあ、本当に好きだったんだ」

「何が」

「私の匂い」

「またそこに戻るのかよ」

「大事なところじゃん」

「別に好きって断言したわけじゃない。好きかもしれないって言っただけ」

「細かい」

「全然違うだろ」

「じゃあ今は?」

「今?」

「今はどう思ってるの」

 急に聞かれて、俺は返事に詰まった。

「今日の匂い?」

「いや、そうじゃなくて……いや、匂いでもいいけど」

「何だよ」

「自分でも分かんなくなった」

 陽菜が顔を赤くする。

 千紗は横で笑いを堪えている。

「水野、笑うなら声出して笑え」

「いや、今は我慢したほうが面白いから」

「意味分かんない」

「こっちの話」

 陽菜が恨めしそうに千紗を見る。

 俺は少し考えてから、陽菜へ言った。

「少なくとも、嫌じゃない」

「それ、最初と同じじゃん」

「じゃあ、前より気になる」

 言った瞬間、陽菜が止まった。

 俺自身も止まった。

「……何が?」

「だから」

「私が?」

「匂いが」

「今、一瞬『私が』って言いそうにならなかった?」

「なってない」

「絶対なった」

「なってない」

「耳赤いよ」

「うるさい」

 千紗がとうとう吹き出した。

「ごめん、もう無理」

「千紗!」

「いや、だって二人とも分かりやすすぎる」

「何が!」

「まだ何も言ってない」

「今の顔で分かる!」

 学食の周囲から何人かこちらを見る。

 陽菜は慌てて声を落とした。

「もう最悪」

「お前が大声出したんだろ」

「香坂君のせい」

「俺、普通に答えただけだぞ」

「そういうところ!」

「何だよ」

「何でもない!」

 陽菜は頬を膨らませながら、紙袋の中へ三つの容器を戻した。

 そのまま席を立とうとして、一度止まる。

「でも」

「何」

「今日、話してくれてありがとう」

 急に真面目な声だった。

「別に」

「そういう時くらい素直に『どういたしまして』って言えばいいのに」

「じゃあ、どういたしまして」

「言わされてる感すごい」

「面倒だな」

「人間は大体面倒なんでしょ」

「またそれ使うのか」

「便利だから」

 陽菜は笑った。

「じゃあ、また明日」

「おう」

「それと」

「まだあるのか」

「明日、もう一個だけ試したい」

「何を」

「今日の三つ、簡単すぎた気がするから」

「まだ疑ってるのか」

「違う。面白くなってきた」

「最悪だな」

「じゃあ明日はもっと難しいの持ってくる」

「持ってくるな」

「もう決めた」

「人の話聞けよ」

「またね、香坂君」

 陽菜は楽しそうに手を振って去っていった。

 千紗もその後ろを追いかける。

 少し離れたところで、二人が何か話していた。

「陽菜、完全に楽しんでるじゃん」

「うるさい」

「昨日まで逃げてたのに」

「だから逃げてないってば」

「じゃあ今は?」

「……普通に話してるだけ」

「ふうん」

「何、その言い方」

 二人の声は人混みに紛れて聞こえなくなった。

 俺は残った唐揚げを口に入れながら、何となく思う。

 昔の話をしたあと、もっと重い気分になると思っていた。

 実際には、そうでもなかった。

 陽菜が変に慰めなかったからかもしれない。

 全部俺が悪かったわけじゃない、と言ったあとで、それでも傷ついた事実は消えないとも認めた。

 その曖昧さが、俺には妙に楽だった。

 人間の話なんて、大抵は白黒で片づかない。

 誰かが全部悪いわけでも、全部正しいわけでもない。

 だから面倒なのだ。

 でも、その面倒な部分まで話せる相手がいるのは、悪くないのかもしれない。

 俺はそこで、自分がもう明日の昼休みを少しだけ楽しみにしていることに気づいた。

「……まさかな」

 そう呟いて、残りの定食を食べる。

 翌日。

 陽菜は予告どおり、三種類の飲み物を持ってきた。

 しかも今度は千紗だけではなく、なぜかもう一人、見知らぬ上級生まで連れていた。

 その女は俺を見るなり、楽しそうに笑ってこう言った。

「へえ。君が、匂いで人を困らせる一年生?」

 その瞬間、俺は直感した。

 たぶんこの人とは、関わらないほうがいい。

 そして、そういう予感に限って当たる。

 俺が後に「フェチ研」と呼ばれる妙な研究会へ引きずり込まれるまで、あと少しだった。

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